齋藤茂吉歌碑
齋藤茂吉歌碑
大江町には多くの文人墨客がおとずれましたが、山形県生まれのアララギ派の巨人齋藤茂吉も三度足を運び(明治28年、以後明治30年、昭和4年)合計4首の歌を詠みました。今、最上川河畔、元屋敷、原町には茂吉を偲ぶ歌碑が建立されており、歌碑を巡るコースを散策しながら、当時の情景を思い起こすことができます。
茂吉の歌碑
最上川のさかまくみづを今日は
見て心の充つるさ夜ふけにけり
碑の場所:左沢最上川河畔
さ夜なかと
なりたるころに
目をあきて
最上川の波の
音をこそ聞け
碑の場所:左沢最上川河畔
左澤の
百目木たぎちて
最上川
ながるるさまも
今日見つるかも
碑の場所:左沢最上川河畔
われいまだ十四歳にて庄内へ
旅せし時に一夜やどりき
背景:13歳の時上山小学校の訓導が私等5人ばかりの生徒を引率して旅に出た。第1日目は上山裏山越をして最上河畔の百目木というところに一泊した。ここに来ると川幅はもう余ほど広く、こんな広い川を見るのは生まれて初めてである。また向こうの断崖に沿うた僅かばかりの平地をば舟を曳いてのぼるのが見える。(中略)その日の夕食には鮎の焼いたものが3つもついていたし、翌朝は鮠の焼いたのが5つもついた。何もかも少年等にとっては珍しい。12銭づつばかりの宿料を払って其処を立った。『鮎旨かったなえ』『旨かったなえ、おれ頭も皆食えた』『おまえ腹わたも食うたか』『うん腹わたも食たす、骨も食た』(齋藤茂吉選集第十一巻 P215 岩波書店)
碑の場所:原町十字路
南より音たてヽ来し疾きあめ
大門外の砂を流せり
背景:齋藤茂吉の左沢行き 「左沢行」は茂吉48歳の昭和4年9月14日である。左沢駅より人力車に乗って、正直宅を訪ねた時の茂吉はグレーがかったしまの服を着、中折帽子をかぶっていた。一服し雑談の後に福太郎(正直の父)、正直、はなよ(正直の父)を連れて百目木の簗にいった。9月は鮎の節である。(産卵のため下る季節)茂吉は、簗に下りてくる鮎を見ては、声をあげて楽しんだ。それから料亭に入り、ビールを飲みながら、鮎の塩焼き、鰻の蒲焼き、鯉の洗いなどを食べ、上機嫌になり新庄節などをうたったりし、帰りは遠回りして、遊郭のあるところを通った。その夜、正直宅に泊まった茂吉は、高野山で詠んだ自分の作品を正直に揮毫(※キゴウ=毛筆で文字や絵をかくこと。特に、知名人が頼まれて書をかくこと)した。
碑の場所:元屋敷